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2018年02月07日 教育庁
[別紙]
東京都指定有形文化財(建造物)
板橋区徳丸七丁目11番地1号
板橋区、板橋区土地開発公社
木造平屋建、寄棟造、茅葺(かやぶき)、建築面積135.71平方メートル
土地面積1,292.28平方メートル
本件は、徳丸脇村(とくまるわきむら)(現在の板橋区徳丸)にする所在する享保8年(1723年)墨書のある古民家で、当地では「東(ひがし)の隠居(いんきょ)」と称されている。施主は徳丸脇村の名主を務めた粕谷五郎右衛門(ごろうえもん)(1732年没、享年71才)で、五郎右衛門は享保11年頃に隠居して別家「東の隠居」の初代浅右衛門(あさえもん)となった。「東の隠居」は以後も代々、徳丸脇村の組頭(くみがしら)や年寄(としより)を務めた。徳丸地区は、寛政6年(1794年)の『四神地名録(ししんちめいろく)』に「田所広大にして民家のもやうあしからす(模様悪しからず)」とあり、現在は宅地化しているが、わずかに武蔵野の屋敷林の面影を残している。
建物は南を正面にして建ち、桁行16.253メートル、梁(はり)間8.181メートルと大型である。開口部が少なく閉鎖的で、縁側を設けない外観は、江戸中期以前からの古い形式が残る。
また、土間境に建つ3本の大黒柱、3間四方のヒロマ、押板構え、いわゆるシシ窓の形式等は、関東地方における江戸中期の古民家に見られる特徴であるが、四つの特徴を全て備えた例は少ない。
間取りは食違い四間(よま)取りで、上手(かみて)2室をザシキとツギを続き間の接客空間とするのは、民家建築としては先駆的な例である。
また、化粧の板軒天井を用いた初期の例でもあり、格式を高めるため手先梁や軒反り等の社寺建築の技法を取り入れる等、民家建築の発達を考える上で貴重である。
このように本件は、関東の古民家としての地域的特色や、近郊上層農家の発達の過程を示すものとして価値が高い。
さらに、建築年代が明らかな民家として都内で最古級であり、高い歴史的・学術的意義を有している。
南稲荷講膳椀 | 南稲荷講膳椀倉 |
東京都指定有形民俗文化財
福生市大字熊川57番地
南稲荷講
江戸時代、人々が冠婚葬祭を個人宅で行うためには大人数の会食に用いる多数の膳椀等が必要であり、それを各個人が常備しておくことは困難だった。そこで、膳椀等の用具を複数人で共同所有して必要な時だけ使用する慣習が生まれ、それらの用具を膳椀倉と呼ばれる倉に保管した。膳椀倉は、江戸時代末期から明治時代初め頃に成立し、都内では多摩地域に広く分布していた。しかし、式場・斎場の普及等により、昭和末期から平成にかけてそのほとんどが消滅した。
福生市熊川の南地区では、現在も南稲荷講が膳椀及び膳椀倉を所有し、初午(はつうま)行事で使用している。南稲荷講は寛政12年(1800年)の史料にその名が現れ、江戸時代に熊川村名主を務めた石川家を中心に運営されてきた。膳椀に関する記録は明治時代前半から散見され、稲荷社境内に現存する膳椀倉の建築年代は明治16年(1883年)頃と考えられる。
膳椀は、多種多様な膳・椀類をはじめ皿や湯桶(ゆとう)・盃(さかずき)・角樽(つのだる)・飯台(はんだい)等の漆器、湯呑や猪口(ちょこ)・皿・丼・火鉢等の磁器、これらを納める箱や茹でたうどん等を入れる切溜(きりだめ)と呼ばれる容器等の木製品、その他、ガラスの徳利(とっくり)や鉄製の銚子(ちょうし)等で構成される。
多摩地域に広く分布していた共有膳椀であるが、生活様式の変化によって利用されなくなり、その多くは払い下げられたり廃棄され、散逸してしまった。博物館や資料館に寄贈されて命脈を保った膳椀も幾つかあるが、南地区では多種多様な膳椀と共に膳椀倉と講が継承され、初午行事の際に一部の膳椀が使用されるなど、生きた民俗資料として残っている。近代熊川村の人々の相互扶助に基づく暮らしぶりが見て取れ、多摩地域の生活文化の特色を示すものとして重要であり、民俗事象の現在に至る時代変化を追うことができる事例としても貴重である。
狐塚古墳全景(中央の円弧部分) | 狐塚古墳石室 |
東京都指定史跡
調布市
東京都調布市布田六丁目53番1、2、3、4
1,100平方メートル
狐塚古墳は、調布市の多摩川中流域左岸に5世紀前半から7世紀前半に構築された下布田古墳群に所在する円墳である。下布田古墳群では17基の円墳が確認されており、狐塚古墳は6号墳となる。布田六丁目土地区画整理事業に伴い平成12年10月から13年3月にかけて確認調査が実施された。
狐塚古墳は、墳丘径(周溝内径)44メートル、周溝を含めた外径60.5メートルの大型の円墳で、埋葬施設である石室はほぼ真南に開口し、半地下式の横穴式石室を構築している。石室は、現状で羨門(せんもん)から奥壁まで8.7メートル、石室床面長6.8メートル、幅は奥壁部側2メートル、羨道側1.45メートル、奥壁へ向かってやや幅が広くなる羽子板状を呈している。天井部は削平されているが、側壁は河原石を小口積みし、奥壁にのみ凝灰岩質砂岩の切石を積み上げている。
出土品は、羨道に近い石室西壁下より鉄製大刀(たち)3点や鉄鏃(てつぞく)1点などがまとまって出土している。鉄製大刀のうち、最も長身のものは、全長94.5センチメートル(刀身部79センチメートル)の直刀で、刀身に径5ミリメートルほどの孔を穿(うが)った刃関孔(はまちこう)大刀である。墓道からは須恵器や土師器が出土し、これらの出土品から狐塚古墳は、下布田古墳群の中でも最終段階の6世紀終末から7世紀初頭に構築された大型円墳とすることができる。
古墳時代の武蔵(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)のうち南武蔵の首長墓は、一貫して多摩川下流域の田園調布及び等々力(とどろき)地域周辺に構築されている。後期においても田園調布古墳群内に前方後円墳が築かれるが、その後首長権を失い、狐塚古墳以降多摩川中流域に、上円下方墳などの特徴的な古墳が構築される。中流域は、やがて府中に国府が置かれ8世紀以降武蔵国の中心となっていく重要な地域である。狐塚古墳は、古墳時代終末期の多摩川中流域における首長墓の変遷において最初の首長墓であり、都内最大規模の円墳として重要である。
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